積読層の知質学的研究

歩いて、見て、知って、感じたことども。

ぼくと「風立ちぬ」―美しい日本人たちは確かにいた

No.32 風立ちぬ ★★★★☆

原作・脚本・監督:宮崎駿

音楽:久石譲

声の出演:庵野秀明瀧本美織西島秀俊/西村雅彦/大竹しのぶ國村隼志田未来竹下景子風間杜夫/スティーブン・アルバート野村萬斎

あらすじ

かつて、日本戦争があった。
大正から昭和へ、1920年代の日本は、不気と貧乏病気、そして大震災と、まことに生きるのに辛い時代だった。
そして、日本戦争へ突入していった。当時の若者たちは、そんな時代をどう生きたのか?
イタリアのカプローニへの時えた尊敬と友情、後に神話と化した零戦の誕生、薄幸の少女菜穂子との出会いと別れ。
この映画は、実在の人物、堀越二郎の半生を描く。
生きねば

宮崎駿の言葉)

 

※盛大なネタバレが含まれます。閲覧注意

 ●予告編でビッとキタッ!!

 僕は劇場公開映画であっても割と前評判や知識をつけてから見ようとする癖がある。もちろんストーリーの核心に迫ることはナンセンスなので調べたりはしないが、例えば今回であれば、主人公・二郎のモデルとなった技術者・堀越二郎と作家・堀辰雄についてしっかり下調べしてから劇場へ足を運んだことであろう。

 しかし、今回僕はそのような邪推というか野暮はしなかった。というのも、最近テレビを見ていないからなんである。おそらく、テレビでは「宮崎駿最新作だ!」「零戦だ!」と騒ぎ立て、視聴者たちを興味津々にさせていることであろう。話題の映画というものはそうやって宣伝されていく。書店へ行けば関連書籍が所狭しと並べられ、窮屈なこと極まりない。僕の下宿の近所の書店においても「零戦」特集くらいはしていたのではないか?だが、僕は必要以上に宣伝に煽られなかったたためにそういったコーナーに立ち入るようなことなく、今日という日を迎えた。

 まったく題材について関知していなかったわけではない。制作発表の話を聞いたとき、時節柄とても難しい題材を選んだものだなぁ・・・と感心したものである。

 公開は大学の試験期間とも重なり、劇場へ足を運ぶのを躊躇していたが、ようやっとその大事も収束し、Youtubeをだらりと散策していた。たまたま目に留まったのが予告編である。まだ見ようか見まいか決めあぐねていた僕の背中を軽快に押したのは、この1本の予告編である。

 地面が大きな波を描きながら、家を、街を破壊していく。関東大震災の描写である。ここに何か強い力を感じた。「これは劇場で見なければ後悔するぞ!!」僕は早速、朝一番の回で観ることを決意したのである。

●結論を先に述べると!

 これは予告編詐欺の映画なのであるッ!良くも悪くも!

 まず、本作の企画段階において宮崎はプロデューサーの鈴木敏夫から「戦争反対であるのに飛行機(戦闘機)が好きという自分の中の矛盾に答えを出すべきだ」と言われたという。宮崎は稀代の飛行機・飛行艇好きで有名である。その手の雑誌に漫画などを連載していたこともある。本作や『紅の豚』の原作もそういった連載であるのだ。『紅の豚』の予告編には「戦争は嫌いだが、戦争ごっこを好む飛行機乗りたち」というような文言が出てくる。宮崎の思想そのままの活劇が描かれた。

 僕は映画に政治的な思想、左や右や、というのを取り入れるのは、或いはそういった視点でストーリーを語るのは嫌いである。個人的に宮崎の戦争観や現代日本観についてはいろいろと思うことがあるが、作品を語る上では並べて語るに値しない。しかし、それであっても僕は「矛盾した考えに決着をつける」、「日本戦争へ突入していった。当時の若者たちは、そんな時代をどう生きたのか?」というキャッチフレーズに、何がしかの答えが提示されるものと思っていた。

 そんなもの無かったのである。むしろ、零戦と戦争に関する描写はほんの一部でしかなかった(それがテーマの映画ではないんだけどもね)。

 ひたすらに飛行機は夢・あこがれである、という分かり切った描写がなされる。戦争については単なる時代背景としてのスパイスでしかなかった。

●美しい日本、美しい日本人たち

 二つのまったく異なった人格を一つの人物に再構成し、物語を作り上げるという発想は素晴らしい。ただ、やはり二郎が架空の人物でない以上、再構成にどのような意味があるのだろうかとも思ってしまう。

 だが、最愛の人・菜穂子との恋愛劇は非常に良かった。二郎も菜穂子も当時の時代人の雰囲気がなんとなく伝わってくる。初々しい恋でありながら、永遠の熱い愛。菜穂子がその死を悟り、零戦初号を完成させた二郎の元から去っていくとき、「いちばん綺麗なところを好きな人に見てもらった」という言葉をかけられるシーンが素晴らしい。凛としていて、しかし活発で明るい。一途に好きな人への愛を貫くその姿。美しい女性なのである。ジブリヒロインで最も美しいといってもよい。

 技術者の二郎もまたよい男である。世の中の不条理を感じながらも、弱音を吐かず強く生きる。それは夢をかなえるためでもあるが、菜穂子との愛のためでもある。覚悟をもって生きる、とても立派な人間である。

 また、彼らの周囲の人物をはじめ、当時の日本を生きた様々な日本人の姿は強く感じる。時代は暗鬱としていても、人々までは暗くなっていなかった。一部の階級の人間だけではあっても、新しい可能性に向けての飛翔の機会を得られる時代となった。 現在の我々にはない強さもスクリーンににじみ出ていた。

庵野秀明で大正解

 ジブリと言えば声優を使わないことで賛否両論、いろんなことを言われている。今回に至っては役者ですらない、オタク四天王映画監督の庵野秀明を主役に添えた。庵野自身も「なんだかなぁ」って顔をしていたし、大丈夫かな(ここらへんはちょこっとだけテレビで報道をチェックしていた)と一抹の不安を覚えたものである。

 しかし、心配は杞憂に終わった(僕は)。劇場で彼の第一声を聞いたときにあった違和感も、時間と共に解消され、ラストでは完全に堀越二郎となっていたのである。 ところどころ棒読みはあった。だが棒読みといっても、普通の人間はアニメのような大げさな感情表現をいつもするわけではない。特に、二郎のように静かに燃える人物はなおさらである。

 また、これは深読みではあるが、ある意味において庵野抜擢は宮崎の創作に対する遺言状なのではないかと考えた。というのも、ここで描かれた二郎は技術者であり、自分の想像力を用いて今まで誰もが見たこともないようなものを作り出すことを生業としているわけである。これはアニメーターや監督も同じではないか?飛行機という共通性をとれば二郎は宮崎の分身であることが分かる。また、我々は庵野が『ナディア』や『エヴァンゲリオン』といった傑作を生みだしたクリエイターと知っている。その庵野が二郎という飛行機のクリエイターに命を吹き込んだ。その仲人となったのは宮崎である。

 我々は二郎の姿に宮崎と庵野をクリエイターとしてだぶらせながら、物語を追う(僕は)。これは宮崎の世代から庵野の世代へのクリエイターとしての地位―ジブリの後継者の資格―を譲ることを暗に示しているのではないか。「独創的な創造ができるのは10年」といったセリフも出てくる。これは宮崎の残された生涯とも、庵野の活躍できる残り10年ともとれる。

 しかし、宮崎はここで終わらせる気はないようである。愛する菜穂子に励まされ、二郎は夢の高原で決意する。「生きねば」と。

 宮崎もまだまだクリエイターとして生きる=第一線で戦う気は十分あるということではなかろうか。

 こういった妄想が膨らむだけでも、庵野抜擢は大正解である。

●虚構と史実の狭間で

 作品ラスト、カペローニとともに零戦の美しさと死を見届けた二郎の姿は飛行機創作の人生を閉じたかのような印象を与えられるが、彼は戦後に国内初の大型旅客機設計に携わっている。

 一方、もう一人のモデルである堀辰雄は高原の結核病院で菜穂子に当たる恋人・綾子(彼女はとても美人である)を亡くした経験をもとに『風立ちぬ』を執筆した。この経験は彼の文學世界に大きく影響し、明朗な女性と結核、家族への葛藤を描いた『菜穂子』を執筆する(ヒロインの名前はここから。映画の二郎と菜穂子の恋愛のパートはこの2作がモチーフにされている)。彼は最愛の夫人を得るが、死した恋人と同じ結核に悩まされ、1953年に若くして亡くなった。

 タテ糸とヨコ糸が複雑に絡まりすぎて、「堀越二郎の半生を描いた」とはほとんど言えなくなっている。

 

 ジブリ作品にはメッセージ性と共にエンターテイメント性があった。本作にはエンターテイメントを感じる描写は少ないが、それは悪いことではない。ただ、我々はどうしてもジブリの作品という物差しで観てしまう。すると、『ラピュタ』なんかの冒険活劇に軍配が上がってしまう。両方をうまく消化したと言えるのは、やはり『もののけ姫』一作だけであろう。

 

鑑賞:2013年8月1日

文責:苺畑二十郎 2013年8月1日