積読層の知質学的研究

歩いて、見て、知って、感じたことども。

ぼくの「ベン・ハー」―映画史上最大の決闘!・・・新興宗教はつらいよ

No.25 BEN-HER ベン・ハー ★★★☆☆

監督:ウィリアム・ワイラー

原作:ルー・ウォレス『ベン・ハー

脚本:カール・ダンバーグ/マクスウェル・アンダーソン/クリストファー・フライ

音楽:ミクロス・ローザ

出演:チャールトン・ヘストン/ジャック・ホーキンス/ヒュー・グリフィス/スティーヴン・ボイド

公開:1959年11月18日(アメリカ)/1960年3月30日(日本)

上映時間:212分

あらすじ

 紀元前3年、ローマ帝国の圧政に苦しむユダヤの空に奇跡を告げる星が瞬いた。その星の下、ベレツヘムの馬小屋にひとりの赤子が誕生した。彼は神の御子、救世主なのである・・・。

 数年後、ユダヤの貴族ジュダ・ベン・ハー(ヘストン)はローマ人の親友メッサラ(ボイド)と再会する。二人は幼馴染であり、このユダヤで楽しく成長してきた。ローマへと旅立ったメッサラであったが、軍人としてこの街に帰ってきたのである。二人は再会を喜ぶ。しかし、メッサラは支配者として君臨するローマ人へと心変わりしていた。ローマに従順しない者を密告しろというメッサラに、ベン・ハーは「同胞は裏切れない」と怒りを放つ。二人の友情はいとも簡単に壊れてしまった。

 ローマからの新提督が着任する日、自宅の屋上から隊列を見守っていたベン・ハーは誤って瓦を提督へと滑らせてしまう。メッサラの命によってハー家は囚人にされてしまうのであった。ベン・ハーは復讐を誓う。

 死への行進のなか、ベン・ハーは不思議な若者に出会う。ただ親切というわけではない、温かく慈しみに溢れた青年であった。彼に助けられたベン・ハーは生きる希望を取り戻すのであった・・・。

 ●ハリウッド=ユダヤ人の物語

 ユダヤ人は流浪の民である。彼らは気が遠くなるような歴史の長い時間のなかで、国を持たず、侵害され、辛酸を嘗めつくしてきた。今もそれに変わりはないかもしれない。ユダヤ人が生き残っていくためにはどうすれば良いか。それは莫大な富と権力を得ることであった(誇張もあるよ、この表現では)。アメリカにおける映画産業もそのひとつである。ハリウッドはユダヤ人たちによって築きあげられた城であるのだ。

 『ベン・ハー』はただのローマ時代を描いた史劇ではない。「A Tale of the Christ」という副題が示すように、イエス・キリストの物語でもある。ベン・ハーはこの世界の不条理に悩み苦しむ一個の人間であり、彼はわれわれ人間すべての代表として描かれているに過ぎない。イエスによって罪を許されることで救われるのはベン・ハーだけではないからだ。この作品のメインテーマはイエス・キリストなのだ。

 それと同時に描かれるのはユダヤ人(或いはローマ帝国に支配される人々)の受難である。ローマ帝国は強大な軍事国家であり、従順でない者たちには容赦をしない。皇帝こそが唯一神(に近しい者)であり、ローマ式敬礼で彼を称える。

 ふと、ユダヤとローマの描き方を観ていて思ったのは、これはユダヤ人とナチス・ドイツを描いているのではないかということ。「同胞を裏切ることはできない」世界中のユダヤ人たちのひとりとして、ハリウッドの映画業界人たちもいる。その同胞が受けた悲しみ・苦しみ・・・ナチスの残虐さと死んでいったユダヤ人たちの救済を描いている。そんな風に思ってしまうのは行き過ぎた妄想であろうか?

●史上最大の競馬

 『ベン・ハー』といったら「競馬シーン」と誰もが答えるかもしれない。僕も何度となく、この世界で最も有名な方程式を様々な場所で聞いてきた。そりゃ、もう、うんざりするくらいに(『ダークナイト』のジョーカー風に)。

 ベン・ハーとメッサラの友情と決別、決闘へのドラマは実に面白い。ある意味では復讐劇の紋切型であって、日本人が「忠臣蔵」のストーリーを暗記するぐらいに知っていても、感動・興奮・絶頂を覚えるのに似ているかもしれない。その復讐には母と妹の消息が関わっているのも、実に欧米っぽい。

 彼らの憎しみがぶつかり合う競馬シーン。このスケールの巨大さは本当に見事だ。これが「重さ」を感じる美術なのである。CGのペラペラな表現では絶対に、絶対に再現できないものだ。そして、そこで割れんばかりの大歓声を上げる大観衆。これ本物なのですよ?僕はこの競馬場のシーンだけで興奮する。しかし、それだけでは終わらない。いよいよ競馬が開始されると、馬車は猛烈な勢いで、荒々しく駆けだす。この躍動感、スピード感。本物だからこそ表現できるのだ。ギリシャ式戦車とやらでベン・ハーの戦車を破壊しようとしてくるメッサラ。その緊迫した競り合いには、こちらも思わず息を呑んでしまう。他の選手たちが事故を起こし、無残にも轢かれる凄惨極まりない描写を観ているからだ。この轢かれる選手たちもスタントマンを用いているそうだ。恐ろしい・・・。だが、本気の撮影であるからこそ、これほどまでに見事なシーンを描けるのである。メッサラが轢かれ、ベン・ハーが優勝した瞬間、我々は競馬場の観衆と共に大いなるエクスタシィを感じる。方程式は正しかった。僕はこれから方程式を様々な人に語ろう!『ベン・ハー』といったら「競馬シーン」!!

 この映画史上二度と見ることができなさそうな、大スケールのシーンはイタリアで撮影された。これは調べていないので憶測であるが、砂漠のような荒れ地のシーンは、マカロニ・ウエスタンで有名なアルメニアで撮られたのではなかろうか。閑話休題、実はこのイタリア撮影班にはセルジオ・レオーネがいた。後年、彼は「競馬シーン含め、ほとんど俺が監督した」みたいなことを言っていたらしい。いやいや・・・(苦笑)。マカロニつながりのネタで言えば、ジュリアーノ・ジェンマも登場しているという。僕はどこにいたのか分からなかったが・・・。

 この競馬シーンは様々な作品でオマージュされている。分かりやすいのは『スターウォーズ エピソードⅠ:ファントム・メナス』のポッド・レースだ。若きアナキン・スカイウォーカーがポッドという飛行型のレースマシンに乗り込む。ライバルとの競り合いやマシンの事故による大破は『ベン・ハー』そのもの。

 また、これも憶測なのであるが、『ジョジョの奇妙な冒険 PART2戦闘潮流』でも騎馬戦が描かれている。これは主人公・ジョジョジョセフ・ジョースター)と強敵・柱の男のひとりである戦士・ワムウの決闘として描かれる。二人は戦いのうちに心を通わせ、お互いを戦士として称えながら決着をつける。作者・荒木飛呂彦氏は映画ファンであり、PART3主人公・承太郎も名無しのガンマン(クリント・イーストウッド)からデザインしたという。それほどまでの映画ファンである荒木氏なら『ベン・ハー』からのオマージュとして描いても不思議ではないと思うのだ!

●新興宗教はつらいよ

 この競馬シーンは本作のハイライトである。カタルシス感じる動のドラマが、ここから奇跡の人を描く静のドラマへと展開する。ベン・ハーは復讐を果たすが不条理な運命に苦しむ。彼は葛藤を続けるのだ。これより母と妹を助けるために行動し、イエスとゴルゴダの丘へ向かう道の途中で再会する。そして我々がよく知る新約聖書に描かれたイエスの物語の最終章につながるわけだが、なんだか僕には釈然としない部分がある。素直にラストまでの物語が呑み込めないのである。というのも、ベン・ハーのイエスに対する気持ちの変わりようであったり、ハンセン病になっている母と妹が奇跡の力で完治したりといった明らかに宗教色が強い描写が多いからだ。それまでシュワシュワで喉が痛むほどの炭酸だったのが、急に抜けて甘ったるくなったコーラのようである。僕はキリスト教徒ではないし、キリスト教文化圏の人間ではない。だからしっくりとこないのだろうか?いくらキリストの物語とはいえ、奇跡で不治の病が完治とか急展開過ぎない?みんな納得できるのかなぁ・・・?

 僕は競馬シーンまでは★★★★★で評価していた。しかし、この宗教色溢れる描写と、気の抜けたコーラのような甘い展開がちょっと理解できないのだ。この「?」な感情がラストに来てしまうのはとても痛い。

 ところで、イエスが処刑に至るまでの布教エピソードなどは割愛されている。イエス本人が話すことは無いし、尺が足りないだろうし、なによりも観客が知っていることが前提なのであろう(キリスト教文化圏の映画だし)。むしろローマ帝国側の描写が多いだけに、僕は体制側の目線でイエスの新興宗教を考えてしまった。まあ、考えなくともよい民衆たちに考える隙を与え、一致団結させる新興宗教なんて支配者側からすれば恐ろしいだろうね。ローマを支持するわけではないが・・・。

 

鑑賞:2013年6月25日

文責:苺畑二十郎 2013年6月26日