積読層の知質学的研究

歩いて、見て、知って、感じたことども。

ぼくの「ラ・マンチャの男」―夢を追い求め生きるという人間賛歌

No.20 MAN OF LA MANCHA ラ・マンチャの男 ★★★★★

監督:アーサー・ヒラー

脚本:デイル・ワッサーマン

音楽:ミッチ・リイ

出演:ピーター・オトゥールソフィア・ローレン/ジェームス・ココ

公開:1972年

上映時間:

あらすじ

劇作家セルバンデス(オトゥール)は相棒マンセルバント(ココ)と共に、カトリック教会によって逮捕・入牢させられてしまう。そこには人でなしな囚人たちがいて、彼らの荷物を身ぐるみはがそうとした。セルバンデスは脚本だけは守り抜こうとする。彼は弁明として、全員が登場人物となる即興劇『ドン・キホーテ』を演じるのであった・・・。

 ●幼き日の記憶/セルバンデス

 僕が何歳の時だったか忘れたが、僕の父が『ラ・マンチャの男』を鑑賞していた。はっきりと覚えているのは、ひょろひょろとした老人がベッドに居り、何人かに囲まれている臨終のシーンである。『ポセイドン・アドベンチャー』は知っていたようで、太った男がアーネスト・ボーグナインで、老人がジーン・ハックマンだと思っていたようだ。ごろりと寝転がる父の傍らに、同じように転がっていたビデオのパッケージには『ラ・マンチャの男』とあった。

 ところで『ドン・キホーテ』はミゲルデ・セルバンデスによって書かれた、世界で最も愛され続けている小説の一つである。このセルバンデスはスペインの人で、日本ではちょうど戦国時代の人である。1500年代後半~1600年代前半は世界的に不安定で、特にスペインではイギリスと戦って、無敵艦隊が敗北するといった国家の勢力図が激変するような事件が起きていた。そういう時代のためか、セルバンデスの人生というものは非常に前途多難である。スペイン海軍に入った彼は、左腕の自由の喪失、捕虜、投獄、先述の無敵艦隊壊滅による失職、さらに投獄・・・という辛い出来事を人生のほとんどの時間をかけて経験した。本当に最晩年になってからヒットしたのが『ドン・キホーテ』なのである。

 『ドン・キホーテ』の構想は投獄された牢獄のなかで纏められたものであるという。それまでの己が人生を振り返り、そこからこの物語を生み出したのであろう。本作の舞台が牢獄のなかというのもこのエピソードに由来するようだ。

●嗚呼、凡作か→否、傑作だ

 元がブロードウェイのミュージカル作品ということもあって、舞台上で行われているような設定が多い。牢獄のなかのシーンは舞台演劇のワンシーンとして思い浮かべられる。劇中劇『ドン・キホーテ』における宿屋の各シーンも同様である。背景に広がりが必要としない場面が多いなと思った。『ウエストサイド物語』や『サウンド・オブ・ミュージック』では(もちろんそういうシーンもあるが)あまり考えないことである(実際、映画のシーンが舞台ではどうだったのかを『ウエストサイド物語』を鑑賞して確かめたときは驚きの連続であった)。

 物語は複雑な構造をしている。舞台は現実の中世スペイン、セルバンデスと囚人たちのいる牢獄である。ところが、劇中劇を演じることになるから『ドン・キホーテ』の世界が存在しているが、騎士ドン・キホーテアロンソ・キハーナという男が演じている(妄想している)わけなので、劇中劇世界の現実はキハーナであり、さらに空想の産物としてキホーテがいる(ここは曖昧だが)。3つの世界が入り混じりながら物語は展開される。『ゴッドファーザーPARTⅡ』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』で複雑構造を嫌ったアメリカにしてはよくやったね。

 前半はわりとテンポが悪く感じた。嗚呼、これは舞台で鑑賞する分には面白そうだが、映画的ではないのかも・・・と思ってしまった。このときの僕はなんと愚かなのであろう!

 耳に残る楽曲が少ないのも愚かなことを思った原因の一つである。『見果てぬ夢』や『ドルネシア』は耳に残るが、ミュージカル(映画)作品の傑作では少ないほうなのではないだろうか?でも、ずっと歌いっぱなしの『レ・ミゼラブル』とは違って安心して観ていられる。

 僕のなかで作品に対する思いがヒートアップしてきたのはソフィア・ローレン扮するアルドンサ/ドルネシアが、ドン・キホーテの優しさを感じ変わってきたあたりからである。ドン・キホーテはどうしてかくも気高く、優しく、夢を忘れないのか。その姿は「狂人だから」という理由では説明できない。アルドンサも不思議に思ったのであろう。

 おそらく、キハーナは複雑な人生を送ってきた人なのだろうと思う。不幸ばかりの人生だったのではないだろうか。そして、世の中も不条理なことばかりである。しかし、人生を強く生き抜こうとするとき、人は夢や目標を持つ。そのために生きようと決意する。不条理に立ち向かおうと決意する。ドン・キホーテとは人生を強く生き抜こうとする、人間だれしもが持つ希望の象徴なのだ。

●見果てぬ夢と人間賛歌

 ありのままの人生を受け入れるということは、運命に屈したことになる。向上しようという視点に立てなければ人は進歩しない。そして、進歩できない人が現状のままでいられるということはあり得ない。後退するばかりである。

 ドン・キホーテが見果てぬ夢を追い、かなわぬ敵に挑み、手の届かない星を掴もうとすることは滑稽なことであろうか?彼は運命に屈しようとしなかった。人生に希望を持って挑んでいたのである。生きようとしていたのである。幸せか不幸かということは問題ではない。しかし、彼の姿勢というものはかぎりなく幸せに近いものであると思う。

 地球上の生命体で、おそらく人間だけが生きていることに価値をつけようとした。そうすることによって人間は生きることに対して弱い動物にもなってしまった。また、社会のルールに則って個人の価値・評価付けもした。囚人たちは囚人という評価を、強盗や殺人という社会のルールを破った為に得た。しかし、生きていこうとする人間の本来の姿は囚人もそうでない人も変わらないはずなのである。

 ドン・キホーテはそういった強く生きようとする力であり、誰もが持っているものである。ラストで囚人たちはセルバンデスの描こうとしたものを理解する。理解できるのだ。誰もが心に持っているものであるから。

 アルドンサはキハーナの今わの際に訪れる。そこでキハーナは生きようとすることを止めていた。それまで娼婦として不幸な人生を歩んできた彼女は、生きようとしていなかった。ドン・キホーテにドルネシアという「彼女のなかのドン・キホーテ」を気付かせられたことで、彼女は強く生きようと決心した。そう、二人の立場は出会った時と全く正反対になってしまったのだ。

 彼女の言葉でキハーナは再びドン・キホーテ―生きようとするこころ―を取り戻す。最期の瞬間、彼は生きていた。生きようとしていたのだ。

 アルドンサはマンセルバントに「ドン・キホーテは生きていると信じよう」と言う。これは僕たちへの言葉だ。夢を持つということは生きようとすること。夢を追い求めるのは生きているということ。どうか、あなたたちも夢を追い求めて生きてね、と。

 ドン・キホーテとは、人生への、あるいは人間の讃歌なのだ。

●大号泣

 僕が記憶の片隅にとどめていた臨終のシーンに、十数年ぶりに戻ってきた。あの日、退屈に思っていたシーンを今は伝えたいことを分かったうえで観ることができる。僕はドン・キホーテとサンチョとドルネシアが歌う『見果てぬ夢』以降、涙が止まらなかった。素敵な作品である。こんな素敵な作品に出会えたことが幸せである。

 

見果てぬ夢を追い求め

かなわぬ敵に戦いを挑み

耐えがたい悲しみに耐え抜いて

勇者すら行かぬところへ向かう


 
もう少し大人になったとき、もう一度観て何を思うのだろうか・・・そんなことを考えた映画だった。

 

鑑賞:2013年6月15日

文責:苺畑二十郎 2013年6月15日